傷が癒えるときまで

ずっとずっと昔で思い出にしたつもりのことが、昔の知り合いと再会して
鮮やかに蘇った。

切ない。切ない。涙が止まらない。
傷は癒えたと思っていた。もう大丈夫だと。
この想いは、一生抱えていくのだろうか。だめだとか思っても。
だったら、もうあきらめよう。想い続けることを受け入れよう。
それ以上なんて、もう求めるのは止めよう。

人は誰でもそんな想いを抱えているのかな。だとしたらみんなどうやって
その想いとつきあっているんだろう。

自分だけではなく、周りの人にも同じ想いをしている人がいると聞いた。
大切なものを失って、あまり笑えなくなったのだと。
残りの人生をどのように生きて良いのかわからない人がいると。

どうして、かけがえのないものは、とても感動を与えてくれるけれど、
失った時は、心を失うほど自分をダメにしてしまうのだろう。
努力や、時間ではどうにもならないほど。

時間が解決してくれると信じていたのに。きっと他に大切なものができると
思っていたのに。そして、それは二度と手に入らないのに。

でも前に進まなければ。そんな気持ちを抱えたまま今日を生きなければ。

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シーソーのように

人生とかってシーソーみたいだなと思った。
何かをあきらめると楽になるけれど、また選んだ道でも同じくらいの
重さの悩みができる。
そんなふうにゆらゆら揺れながら、悩みながらバランスを
取っている。

同じ重みがあるのなら、できる限り自分が満足するように
やっていきたい。

テレビを見ていて「いかに生きるかというより、いかに死ぬか」みたいな
言葉が心に飛び込んできた。
そうだなって思って。解釈が違うかもしれないけれど、
死ぬときに「ああっ、これで私の人生はよかったな」って
思って死を迎えられたら、それでいいのかもしれない。

そのために生きていく。

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コントロール

人は、多少なりとも周りの人、物、事柄をコントロールできればと
思うものかもしれない。

私はそれが人より強いような気がする。
基本的にじっと動かないし、口もあまり動かさない。
面倒くさがりなのだ。
それ以外にも理由はあるだろうが、「こうあってほしいな」とか
割とタナボタ的な発想が多いような気がする。

願望ばかり強く、行動していなくて、「なんでこうならないの?!」と
不満を溜めることが多いような気がすると最近気づいた。

周りの友人に自然に流れるように生きている人がいる。
そういう人は来るもの全てを受け入れて生きているのだろうか。
とても楽というか、無理がなく生きている気がする。

今の世の中、自分で何でもつかまないと的なことを
言われることが多いし、自分も努力してつかんで行きたい、
幸せは努力によって運ばれるなんて考えてもいた。
それががんばる人、まじめな人への甘い言葉であるのは
間違いない。いい響きだ。

でもそうでないことが多い。この歳になってからそんな風な
ことに気づくのは遅すぎるかもしれないが、
努力ではどうにもならないことがなんて多いのだろうという
ことにいまさらながら気づかせられる。

コントロールしようなんて、虫が良すぎたのかな。
ある芸能人が「求められたところで精一杯の力を出す」みたいな
ことを言っていた。
そういう考えもありかなと目からウロコだった。
自分が求めることばかりが正しいと、良いことだと思ってきたから
求められることの必然性、偶然ではなく運命を受け入れる強さを
もてたら、自分も自分らしく生きていくことができるのだろうか。

今の私の最大の課題だ。

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記憶の不思議

人の記憶はやっぱりインパクトの強いものが
いつまでたっても残ると思う。
古い順に消えていくということではない。

昨日あるマンガを読んでいて、「途中の記憶がない」というような
ことが書いてあった。
私にもすっぽりあまり覚えていない記憶のない時期がある。
そのマンガでも同じだったが、非常にショックな出来事の後
それをある程度乗り越えるまでは、生きているのか死んでるのか
わからない状態のようだ。
友人から「あの時こんなことがあったよね~」とか
言われても、さっぱり覚えていないのだ。
生きているので精一杯。息をしてるので精一杯みたいな感じ。

なんとなく空気だけは覚えている。春のおだやかな、それでいて
まったりとして、生ぬるい感じ。
その間のことをもったいないと悔やんでも、どうしようもない。
気づけはずいぶん遠くまで着たけれど、
あの時ああすればなんて思っても、もう取り返しはつかない。

これから先、楽しい思い出を作っていけるだろうか。
生きていることをカラー色で実感して、いつまでも色あせないような
そんな思い出をもう一度手に入れることはできるのだろうか。

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人生で成功するには

自分が思うような人生を送るのに欠かせないこと。
色々あるような気がするが、最近思うのは、
「あきらめないこと」である。

あきらめないことの例を挙げれば、「粘り強くやること」
でもある。
周りの人を見ていると、結構しつこくわからないことは
わかるまでがんばったりしている。
それは、普通のことなのかもしれないが、
私のなかでは「しつこい」は何故かタブーなのだ。
どうしてそういう感覚が生まれたのかは不明だが、
「かっこよくない」とか「周りに迷惑がかかる」なんて
いうのが頭に浮かぶ。なので本や書類やネットなどで
情報はできる限り集めたいと思う。

しつこい人がうらやましい。私の場合はしつこく周りに迷惑を
かけてるうちに本来の欲求までなくなってしまうから。
自分の欲求をずっと貫き通せる人なんて、本当にうらやましい。
だから、幼いころからの夢を現実に変える人なんて
とってもうらやましいのだ。
私の場合はその夢が、「本当にそこまでしてかなえたい夢だった?!」って
消えていくから。

生きていく上で、粘り強さは大事かもしれない。

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人がいいとは

私は、周りで起こっていることに現実味がないことがよくある。
映画やドラマの1シーンを見ているような感覚になるのだ。
その場にいても自分は全く関係なく、周りの人をものすごく
遠くに感じてしまう。

「そういうのを離人症って言うんだよ」と言われたことがある。
離人症は、人がいい人がなりやすいらしい。
いい人ってどんな人?私は結構いい人ではないし。
きっと「周りから良く思われたい人」のほうが正解かも。
要するに「良い子」なのである。
自分は透明な存在。自分は二の次な感じ。
だから未だに「こうしたい」なんていう強い欲求はない。
人に反対されると「ああそうですね」なんて簡単に
夢は萎える。

ずっと昔は世界がモノクロに見えている感じだった。
ある時、心臓のあたりからドロドロしたものが流れる感じで
それが数日寝る前に続いたことがあった。
その後は、モノクロの世界からカラーになった。

周りの人はどうなのだろうか?
私は飲み会や、集まりごとのときに周りがワイワイ騒いでいるときに
それを強く感じる。まるで全然違う世界のことのようだ。

前にも書いたが占い師さんによると私は「人間で生まれる魂じゃなかった。
イルカなんかで生まれるような魂だったのよ。」なんてことを
言われたくらいだから、人間世界には合わないのかもしれない。
(ほんとかい?)

なので、我を忘れて何かに没頭、とか、誰かと話してどんどん
ヒートアップ、なんてことはない。
だから、周りのみんながうらやましい。そんな風に誰かと
無我で笑い合えたり、バカが言えたりするからだ。

無我で気づいたけど、私は逆に常に「自分」というものを
忘れないのだな。常にもう一人客観的な自分がいるのだな。
こういうのと自意識過剰なのが関連しているのだろうか。

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感覚人間

ある意味器用といえば、器用。
私は学生時代、得意科目というものがなかった。逆に言えば
不得意科目もあまりなかった。物理は先生が嫌いでまったく頭に
入らなかったが。

基本的に、理屈というよりも感覚?体の感覚みたいなもので
勉強は覚えていた。だから、それに接しているときは、
なんとなく勘で解けていた。ひどいときなんかは
マークシートが殆んどだったので、英語なんかは前後の文章から
「なんとなくこの単語が入りそうだな~」みたいな感じで解いていた。

国語は勉強した記憶があまりない。漢字も送り仮名があれば
おそらくこの言葉が入りそうといった具合だ。

数学も、一度方程式を解いてしまうと、テストでは同じようなものが
出れば、あまり考えず最後まで長い公式を解いていた。

自慢ではないが、そういう「なんとなく」で解いてきたのだ。
なので、誰かに教えたり、後で説明したりなんていうのが
まずできない。言葉で説明することができないのだ。
「だってそうなるからそうなんだもん」みたいな。

だから、中学でも高校でも成績はほとんど中の上ぐらい。
すんごく頭がいいというわけでもなく、悪いというわけでもない。

大人になった今でもなんとなく仕事なんかはやっている。
一度感覚を覚えると殆んど脳を通らず
手が動くといった感じだ。そのため脳はどんどん
退化していっている感じすらする(笑)

こういう感覚人間は多いのだろうか???

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トラウマとは

ここ数年、人との接し方がわからない。
自分が思っていたリアクションと、相手から返ってくる反応が
違うことが多々ある。
そんなことは当たり前だと言われればそれまで。
だって、みんな違う人間なのだから。
だけど、それが毎回続くと徐々に自信を失っていく。

鏡で見る自分の顔は、能面みたいな顔をしている。
表情がなくて、こわばっているのだ。
昔はこうだっただろうか?
感情を表に出すのが怖くなってから、私の顔は
こわばって硬くなってしまった。

何かトラウマがあるのだろうか?
普通に生きていれば、生きていく程どんどん傷つくことや
つらいことはあるから、それの全てをトラウマと言ってしまえば
本当にきりがない。
私は気づかないうちにそんなに何かに傷ついていたのだろうか?
それは何に?どうしたらそれを克服することができるのだろうか?
原因も分からないのに、対処のしようがない。

いや、原因が思い当たりすぎて、生きているだけで
いつも傷ついているから、防ぎようもない。
日々、人の言動に傷つき、マイナス面だけをとらえていれば
そりゃ、能面みたいな顔になってくる。

一番大切な「信頼」というものが、私にはかけているのだ。
何を言われても、何をされても最終的には「私でOKだよ」という
確証みたいなもの。受け入れられるということ。
だから私は人に面と向かってきついことがいえないし、
笑えない状況でも笑ってきた。そのことで「どこがおかしいの」みたいな
ことも言われてきた。
でも、相手に受け入れられているという確証がない限りは
そう簡単に心を開くことはできない。いや、今まで一人としていない。
そう信じそうになると、離れていってしまう。

逆に私も相手にOKを完全には出せない。
自分が相手を受け入れていないから、相手も受け入れてはくれない。

もうあきらめたほうがいいのだろうか。
私は誰かを受け入れることができない。
ずっと信頼してやっていくことができない。
もうできない。もうがんばりすぎて、無駄な努力をしているような
気がする。本当は自分はそんなことを望んでいないのに
世間体だけで、いい人になろうとしている気がする。

トラウマは、自分自らが原因となって作っているのだろうか。
私は私だからそこから避けることはできないのだろうか。

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思惑とは逆のほうへ

周りの人に、人に話しかけているのか、話しかけていないのか
独り言なのかわからない人がいる。
大声を突然だしたり、「これってどうなってるのかな~」みたいな
ことをぶつぶつ言っている。
その人は人に話しかけるときも話しかけた相手の
名前を呼ばない。

独り言かと思って、仕事をしていると「ちょっと、ちょっと」とか
「ねえ」などとあくまで名前を呼ばずにしつこく
食い下がる。しかもそのとき体はこちらを向いていないのだ。

正直言って、イライラするし、それに職場の人なので
うるさくて仕事の効率が下がる。

私が思うに、その人は自意識が過剰で、
要するに「かまってかまって」タイプなのである。

自分がいかに関心がもたれているか、名前など呼びかけなくても
みんな自分の話を聞いてくれるはずだといった考えが
根底にあると思う。

しかし、それでは逆効果だ。
関わりづらいのでかえってみんな遠ざかる結果となる。

その上、こちらが仕事上で聞いたことに関しては
あやふやに逃げて、濁すタイプなのである。

どうして人はそうやって自分が望んでいることと
逆の結果が出るほうへと走ってしまうことがあるのだろう。
愛情表現が分かりづらい人もいる。

怖いから。嫌われるのが怖いから。試してしまうのかな。
人から好かれる人は堂々としていて、サバサバしている。
こだわりがない。人から嫌われることも恐れていない。
それでいて、殆んどの人から好かれてしまう。

自分を守ろうとする心は、かえって守れないのではないだろうか。

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伸びきったゴムみたい

待ちに待ったGWも終わり、いつもの生活に戻った。
リフレッシュのつもりが、余計全ての能率が悪くなったようだ。

所謂これが「五月病」ってやつなのかな?
今までもやる気のないことは多々あったが、仕事も何をやって
いいのやら、全く何も浮かんでこない。

今の仕事が暇だということも一つの要因だが、
仕事なんて探せばいくらでもあるのである。

仕事ということではなくて、今の私には「生きる目標」みたいなものが
見つけられない。そこまでくるとなんだか重い話だけれど、
やっぱり目標とかゴールって生活するうえで大事なんだろうな。

旅も行きつくした。美味しいものも食べつくした。
友達ともたくさん遊んだ。家の掃除もやった。

これから先何をどうやっていいのか分からない。
希望がないというより、生まれて初めての白紙状態。
今まであった線路が突然消えた感じ。

こういうのをやっぱり「五月病」とか「鬱」っていうのかな。
何か目的がないと生きていけないのかな?
目的がなくてもOKなのだろうか。
あとの有り余る時間をどうやってやり過ごして行こうか。

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生きる技術

巧く生きる技術と、幸せに生きる技術は違う気がする。
どちらのほうがいいだろうか?

どちらかと言えば、私は前者のほうを選んで生きてきたような
気がする。
効率良くとか、失敗がないようにとか。

今は後者のほうが良かったかなとか思う。
どうも巧く生きることと、幸せに生きることはイコールじゃないみたいだから。

ちょっと欠点があったほうが人はかわいいし、
変なプライドなんか持たないで、計算なんかしないほうが好感が持てる。

今まで巧く生きることを習慣づけてきたから
幸せに生きる技術はちょっと難しいけど、
できる限り心の声を大切にしていきたい。

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愛情とお金の両立は可能か?

最近不思議に思うことがある。
事務職の女性と同じくらいの年収で、奥さんと子供を養っている男性がいる。
収入がどうのということではなくて、どうやって生活しているのだろうかと
思う。しかも、割と幸せそうで車まで持っている。

私はまだシングルだが、自分一人養うのでも今の稼ぎはちょっと不安。
それなのに、男性でしかも妻子がいるなんて、想像ができない。
でも、ちゃんと生活しているのだ。

収入がたくさんあっても結婚しない男性もいるし、ケンカばかりの家庭もごろごろある。

愛情とお金は比例しないのだろうか?
よくお金がないと愛情はだめになっていくなんて聞くけど
そうでないケースもたくさんある。

しかし、自分に置き換えてみると、自分と同じくらいの稼ぎの旦那様は
あまり頼りがいがあるとは思えないし、甲斐性はあるんだろうか?
尊敬できるんだろうか?と思うし、やっぱりその答えは「ノー」である。

そう考えると、そういう旦那様と結婚している女性はやりくり上手なのだろうと
関心するし、やっぱり愛情のなせるワザなんだろうなと尊敬すら
おぼえてしまう。

自分なら最終的にはどっちを取るんだろうか?
愛情とお金を天秤にかけること自体がおかしいのかな。

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人はどこまで変わるのだろうか

最近良く守護霊が変わると、性格が変わったり、運気が
変わったりするなんてテレビで言ってるのを見かける。

守護霊がどうかはわからないけれど、突然性格が変わって
しまうことはあると思う。

私はある年齢を境に、価値観が変わってしまった。
今までの信じてきたものがリセットされた感じで
どの方向へ進んでいいのか分からなくなったのだ。
今までの道に戻りたいけれど、どうあがいても戻れなくなって
しまった。
それからあっという間に10年近くの歳月が流れて
その間はあまりコレといったことはやっていない。
だからあまり記憶がないのだ。

最近、また少し変化が現れ始めた。
私は天邪鬼なところがあって、人が「右」と言えば「いや左」みたいな
偏屈な性格だった。だから、分かってくれる人が現れても
最終的には離れていってしまった。
今は相手を受け入れることが少し楽しい。まだ運転したての
ひよっこなために、全然ぎこちないのだが、前よりは素直に
人の言うことを受け入れることができる。
昔はどうしてもできなかったのだけれど。
なぜできなかったのか原因はよく分からない。

ただ、周りを受け入れることができてきたから、相手も受け入れてくれて
いるのも分かる。どうして今までできなかったんだろう?
それで失ったもの、人は数知れない。
それはずっと忘れないでいたい。ずっと受け入れていくことができるように。

守護霊が変わったとかそういうことと同じならば、
また全然違う性格になったりするのだろうか?
今度はどんな自分になっていくのだろう。

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短所は身を助ける

私は疑り深い。猜疑心が強い。
人が優しい言葉をかけてくれてもどちらかというと
「社交辞令で言ってくれてるんだな」とか「何かやってほしいことがあるのかな?」などと
かんぐってしまう。

生まれつきの疑り深さだから、何かがトラウマになっているなんて
ことではない。それは自分でもよくわかる。
いや、もしかすると小学生の時に遊びに来た友達が
私の家のお金を盗んでいたことがあったから
それがまだ尾を引いているのかな???
でも、その子のことは嫌いにはならなかった。

私は大きな失敗もなく、挫折もなく、大怪我もなく今までやってきた。
今朝ふと思ったけど、その疑り深さも多少役に立っているのかも。
きっとやばいことには手を出していないから、今までこうやってこれたのだ。

できればいろんなことを信じて、失敗たくさんの人生のほうが
人間としては愛嬌たっぷりの、魅力的な人になれるんだろうけど、
私は私だからそうはなれない。
大切な人、周りの人は信じるようになりたいが。

ずっと疑り深いことは短所だと思ってきた。
友達にアドバイスしたことも、前向きなことはあまりなかった(笑)
それは自分がそういう気質だから、相手に共感したいという
私なりの優しさだったから。
でも、だいたいマイナスなアドバイスなので、いい方向へは行かなかった。

それでも、今私がこうやってやれていることに、絶対疑り深さは
役に立っているのだと思う。
疑り深いのではなく、長所と思えば「慎重」ともとれる。

もっと自分を大切にしていきたい。

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春だから?瞑想のせい?

最近眠くて眠くて仕方がない。
そう思って早めに寝ても同じ。
電車の中では本を読んでいても眠くて先が読めなくなるし、
仕事をしていても眠くなる。

それと関係あるのかは分からないけれど、
ものの名前を聞いてぱっと想像できず、ぴんと来るまでに
少し時間がかかる。
現実生活に焦点が合っていない感じ。
それから、体温の変化も激しく、暑かったり寒かったり
体が熱くなっていたりもする。

この症状になったのは瞑想をやってからだ。
私はこの前初めて瞑想をやってみた。
本を読んで自己流なので、それで正解かもわからないが、
昔の記憶が数珠繋ぎに出てきてとても不思議な感じだった。
瞑想中は周りの音がなんだかものすごく遠くに聞こえた。

この症状になってからは生活に支障を来たしそうだったので、
瞑想をしていないが、少し長めの休みのときにもう一度瞑想を再開してみよう。
もっと何かが起こりそうな気がして。

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普通の人

最近、普通の人っていないなぁ~と感じる。

みんなどこかしら変わったところがあり、人とずれているところがある。
要するにユニークな存在。
それがずっと付き合って慣れていくと気にならなくなり
「普通」の存在になるのかも。

といっても、いつまで経っても慣れない人もいる。
タイミングとか、相手の状態とかをあまり考えずに
行動している人って、いつまで経っても慣れないんだよね。
こっちの都合は全然気にしてないからね。

前はあんまり周りの人との誤差とか、ズレを意識していなかったけど、
歳を重ねるとだんだん感じるようになるのかな?
歳をとると、いろんなことに鈍くなると思っていたのに、
だんだん、逆に自分を意識するようになってきたような
気がする。なんでだろう?

若い頃は自分が定まってなくって、液体みたいな感じだから、
まだ自他の区別がはっきりつかなかったのかな。
今は徐々に固体になっているってことかな。
ようするに我が強いとか、排他的ってことにもなりそう。

できれば少し液体ぐらいがいいかな。
かと言って、気体にはなりたくないけど。

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もっと上へ

先日、学生時代の友人に再会した。
友人は育児に入り、4年ほど前に仕事を退職していた。
彼女は、マスコミ系で勤務し、その世界では割と名が知れている人だ。

会って、話をしていたら、パート的ではあるが、また復帰することが決まったらしい。

彼女は学生時代から頭の回転が早く、何事にも言いよどむということが
なかった。また、度胸もよく、足踏みするということもない性格だ。

就職にしても、人間関係にも全てにおいてタイミングがよく見えて、
とてもうらやましかった。
今回も復帰しようと決めてからすんなり決まったようだ。

しかし、きっと自然体であり、流れるように生きているから
タイミングに乗れるのであって、成功していても
きっと影での努力は怠らず、得ているものが多いようで
その裏で失っているものもたくさんあるのだろう。

要するに潔い生き方なのだ。

彼女がそういったマスコミ関係で仕事をしているということよりも
私はその潔さに脱帽してしまう。
世の中の道理というものをよく心得ているのだ。

仕事も、生活のためにというより、きっともっと高尚な目的に向かって
やっているように思う。

できれば自分もそういう生き方をしてみたい。
少しずつでいいから。

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因果応報

災難が立て続けに降りかかってくる時は、何かのメッセージでは
ないだろうか。運が悪いとかじゃなくて、何かしら自分に関連するように
思う。

職場で、何故だかいつもついてない人がいる。
ここぞという時に失敗するのだ。しかも会社に損害を与えるような
大きさのもの。
基本的には本人が悪いわけでも、本人の失敗でもないのだが、
何故だか運悪く(?)貧乏くじを引いてしまうような人。

たしかにその人が根本的な原因ではないのだけれど、
はたから見ていて他力本願で自分の仕事を人事みたいな
話し方をいつもしている。
きっと遣り甲斐を感じていないんだろうね。

おそらく、そういう気持ちが巡り巡って、よくないことを
引き起こしているように私には思える。
小さな積み重ねでも、ずっと続けているとあらぬ方向から
しっぺ返しがやってくるのだと思う。

いろんなことが起きてもそれはきっと何かのメッセージだから、
悪いことが起きても、そう思えばステップアップの
きっかけと思えて、少し楽になれる。

成長するためには、多少痛い思いをしないと気づかないのかも。

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夜はきらい

真夜中の街は嫌い。
ネオンがきれいだから。みんな楽しそうだから。

昔は好きだった。楽しかった。
今は嫌い。楽しい思い出を思い出すから。
大好きだった人を思い出すから。

夜の闇も、今や自分の心や自分まで飲み込まれるような
そんな暗さで圧倒されてしまう。

いつか、また好きになれる日は来るのかな。
一人で終わる一日を、終わらせることができるかな。

いつか、また大切な人はできるかな。
一人で終わる一日でも、好きになれる日はくるかな。

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音楽サイコー

私はあまり趣味もなく、取り立てて言うならば、音楽を聴いたり、
歌を歌うこと、つまり音楽が好きだ。
ピアノを弾いていたり、歌を歌っていると
「もっと上手くなりたい」と思う。

ピアノも全く媒体は同じなのに、弾く人によって音色が全然違うし、
歌も歌い方はいくらでもある。だからアキが来ない。

そう思っていたら、先日行った大好きなアーティストのコンサートで
そのアーティストも「音楽には終わりがないからアキがこない」と
言っていた。すごくうれしかった。

やっぱり音楽はサイコーだ。

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頼りにされることは

プラス?マイナス?
いや、プラスかマイナスかって考えるようになった時点で
アウトかな。

昔は、頼りにされた時は「喜んで~」って感じでなんでも
やってたけど、最近はあんまりうれしくない。

仕事でもそうやってやってきて、以前だったらお互いが
助け合ってやっていた。
でも今は違う。手伝っても、感謝の言葉もさほどなく
いつしか当たり前みたいに頼んでくるようになる。

昔会社の先輩が「人の知識をすぐ借りにくる。金を
払え」みたいなことを言っていた。その意味が今は良く分かる。
自分でがんばってる人は知識や能力の貯金がどんどん
増えていくんだけど、そうじゃない人はその都度その都度
人の知識や能力をもらいにくる。

「能ある鷹は爪隠す」ってことわざがあるけど、
もしかするとあんまり頼られると困るから、わざと無知な
振りをするっていうのが、このことわざの真意かもしれない。

できれば釣ってきた魚をもらって食べる生活じゃなくて
つり方を教えてもらって、自分で釣って食べれるように
なりたいものだ。

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心矯正ギプス

最近ふと思う。

思考パターンには人それぞれ癖があって
良い癖もあれば、悪い癖もある。
でも、ある程度矯正可能なんじゃなかろうか。

例えば、心ではなくて、眼鏡のズレを不要に直すとか、
食事前にお箸をなめるとかいった癖が、矯正できるように
心の癖も矯正できるんじゃなかろうか。

心の癖は、家庭環境、学校、会社の環境などによって
必要に迫られて、ついてきたものもあれば、
もともと持って生まれたものもあると思う。

でも、意識すればある程度は矯正可能なんじゃないかと
最近思う。

視力が悪いのだって、近くばかりを見るから近くにあわせて
筋力が落ちるだけで、訓練すればある程度視力回復は
可能なんだと思う。実際少し回復したし。

心矯正ギプスなんてのはないと思うけど、
意識して姿勢を伸ばすと背筋がよくなるように
意識していけば、だんだんコントロールできるような
気がするなぁ。

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視野が狭いと

私はある地方都市に住んでいる。
いわゆる政令指定都市なので、そこそこの規模だ。
育ったところは田舎で、高いビルなんてなかった。

都会に住んでいると、視野が狭くなり、近くのものしか
見なくなる気がする。視野が狭くなるとなんとなく心の視野も
狭くなる気がする。

田舎にいると遠くまで見るようになり、流れる時間も
全然違う。ゆっくりと流れていく。

都会に住んでいると、気持ちまでせかせかしてしまうが、
時々自然の中でリフレッシュしたほうがいいのかもしれない。

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不思議だ・・・

会社の同僚男性に、社内研修のため別の支店へ出張に行くことが
決まった人がいる。

彼はまだ20代前半なので、先輩社員から新しいことを教えてもらえる
という、仕事のステップアップのチャンスなのだ。

しかし、彼が気になることは「他の方はどれくらいの研修期間だったん
ですか?」とか「支店まではどのようにして行けばいいんでしょうか?」とか
周辺状況ばかり気になるらしい。

もともと、ご家庭の事情で実家を一日でも空けたくないと言っていたが
社員旅行でスキー旅行へ行くことは全然オッケーだったのだ。
しかし研修は延ばし延ばしにしていた。

私は「彼の頭の中の理論はどうなっているのだろう???」と
いつも不思議でならない。
プライベートではなく、これは仕事なのに。
しかも研修をしてもらえるという非常にありがたい状況なのに。
自分もそんなに年齢が離れているわけではないが、
「今時の若者は・・・」などと言いたくなってしまう。
でも彼と一緒にされては今時の若者に失礼だ。

私も社会人なりたての頃はそういう失礼なことを
どこかでしていたのかもしれない。
あるときには色んなもののありがたみはわからない。
私は転職をしても、研修など受けたことはなかった。
先輩もいなかった。引継ぎもほとんどなかった。
だからそのありがたみがわかるんだろうな。

きっと彼もこれから色々学んでくれることを祈る。
当たり前のこと、うっとうしく思っていることが、
実は大変ありがたいことなのだと。

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孤独を感じること

今日とあるエッセイを読んでいたら、
「孤独を感じるのは他人との『違和』を感じて自分を強く感じる時だ」と
書いてあった。

なるほど~と思った。私はちょっとしたことで人と自分の感覚が
違いすぎて、よく人との間に壁を感じてしまう。
ようするに自我が強いんだな。

でも違和を感じて、不快に思うか、新しい刺激と新鮮に捕らえるかで
全然違うような気がする。
若いころは、自我があまり強くなくて、新しい発想などには
ものすごく刺激を受けていたように感じる。周りの人は素晴らしいと。

最近は自我が強すぎて、どうも孤独を感じることが多くなったような
気がする。なるほどね。
同じ事象でもマイナスになったりプラスになったりするから
本当に不思議。

昔は違う考えの人と友達になりたいと思って、無意識になっていたのに、
今では自我が強すぎて、コンプレックスになってしまい
どうも意識しすぎてしまう傾向がある。

でも、なんかすっきりした。新しい発見。
人間って全く孤立してもダメだし、人に同調しすぎてもだめみたい。
意識しすぎてもだめだし、無意識すぎてもだめみたい。
なんか支離滅裂な感じになってきたけど、すべては
バランスの問題らしい。

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心が病気になっても

私の周りには心が病気の人が多い。
ここでは敢えて「心が病んでいる」とは言わない。
何故なら、病気になるべくしてなっている人が多いからだ。

病院に行ったり、自分で静養していたりして、ちゃんと自覚がある。
私は「自分はちょっとおかしいかも」と思っている人は
至って正常だと思う。正常だから「あれっ?」って感じることができるのだ。

生きていくことは、理不尽なことも多い。
自分の努力ではどうすることもできないことも多い。
そんな友人達に、「がんばって」などは言えない。
だって既にがんばりすぎるくらいがんばっているから。
がんばりすぎて心が壊れたのだ。

私ができるのは見守ることしかできない。
私ごときが何かを言ったりしたりはできない。
ただ、みんなの元気な笑顔がみたい。ずっと友人でいたいと思う。

心が時々病気になってもいい。
そのほうが人の痛みに共感できるんじゃないだろうか。
そんなメリットもあると思う。

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心の闇

心の闇は時々自分さえも飲み込んでしまう。
冷静な判断力を失い、自分を失う。

誰かと比較して自分のだめなところとか、相手の優れている
ところとかを考え出すと、そんな闇に飲み込まれそうになる。

何が不満なのだろうか?何が足りないのだろうか?
どうしたいのだろうか?

きっと足りないものなどないし、自分が思うところに結局は納まって
いるし、明日生きるのに困っているということでもない。

誰かに認められたいのだろうか?必要とされたいのだろうか?
多分、そんなことは心底は思っていない。
いざ必要とされたりすると「いやだな」と思うから。

人って自分だけでは何も分からない。誰かがいてそうやって
劣等感を感じたり、逆に優越感を感じたりもする。
ライバル意識を持たないというのは完全には無理。
だって、人間だって動物だもの。聖人みたいな人はいないはずだ。

できればもっと自分本位に生きたい。自分は今のままでオッケー。
だから相手も今のままでオッケーって。

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生きている人間ができること

私が30歳の時、幼馴染を癌で失った。まだ若く進行があまりにも早かった。
私は彼女となんと小学校卒業以来、約17年ぶりに再会した。
家が近所なので、親も仲が良く、彼女が病気で会社を辞めて
自宅で静養しているらしいと聞いたからだ。

私も仕事の節目がちょうどついた時で、「会ってみよう」と
不思議と思った。17年も会っていなかったので普通なら
もう会うのもどうかと考えるかもしれないが、その時は
自然に「きっと会ってくれるだろう」と思えたのだ。

お盆に帰省した際に会い、彼女はすでに摘出手術をしていて、
あとは5年大丈夫であれば癌が再発しないという経過期間だった。

再会して、同じアーティストが好きだということが分かった。
長い時を越えて、繋がっていた感じがしてうれしかった。
一緒に翌年の3月にコンサートにも行った。

しかし、そのコンサートの後、彼女は再び闘病生活に
入ることになった。お盆にまた会おうと話していたが
会えなかった。
そしてその年の12月の寒い日、彼女はこの世を去った。

再会してほんの1年半たらず。彼女のお父さんは
「今日参列した方々のお顔を見ると、まだこんな30歳という
 若さでこの世を去ってしまったことがやりきれない」という
ことをおっしゃっていた。
その言葉は本当に切なかった。お母さんの気丈な姿も
また切なかった。
彼女だけでなく、ご家族も非常に苦しかったんだ。

再会したとき彼女は明るく笑っていた。「髪の毛がなくて
カツラなんだよ~」と淡々と語っていた。
決して弱音は吐かなかった。

でも、それが今ではかえって切ない。きっと闘病生活という
孤独の中で戦っていたんだろうと。どんなに苦しかっただろうかと。
経過期間中にも勉強をして、回復する未来に希望を持っていて
また急速に病状が悪化した時の気持ちはどんなだっただろうかと。

そう思うと何年も経った今でも切なくなる。
私は、そういう経験をしても毎日の生活の中で、
不平や不満を言ったりしてなんとなく日々を過ごしているけれど
生きたくても生きることができなかった人もいるんだと感じる。

生きている人間ができることってなんだろう。
できる限り今を大切に生きることしかないよね。

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イライラする時は

皆さんはイライラする時の対処法はどうされているだろうか?

私は周りから見るとのほほんとしているように見えるようだが、
実は結構短気で、イライラする性格なのだ。

その見た目と中身のギャップもあり、さらにイライラは募る(笑)

イライラすると私の場合、誰かに八つ当たりをしたくなるのだ。
そして、相手から核心をついたご指摘を受けると、すっと引いて
イライラは収まるのだ。
これ不思議。自分で原因が分かっているはずなのに。
他人から言われなければイライラが収まらない。

でも、これってすんごいハタ迷惑なので、
できる限り代替の方法はないかと考えている。
そこでこのブログも立ち上げた。だいぶ効果があるかな。
何かをやっていれば意識は分散される。
だからスポーツもやろうと思うし音楽もやろうと思う。

日ごろ座り仕事ばかりしていて動かないから
なんか要らないエネルギーが溜まっているんだろうね。

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生霊ってあるのだろうか

少し前に腐れ縁だった友人と距離を置いてみたという
コメントを書いた。

自分の決断で心が軽くなったと思ったのだが、
親に話してみたところ「それって本当に精神的に
かなり寄りかかられてたんじゃないの?」という話になった。
たしかに本当に心も体も軽くなったのである。

もしそれが本当だとしたら、人の心はなんとも
おそろしいものだ。

昔々光源氏の話で「生霊(いきすだま)」の話があって
六条の御息所が光源氏の恋人(紫の上だったかな?)の
ところまで心だけやってきて殺そうとする話がある。

そこまでおどろおどろしくは思わないが、人の気持ちは
時間と空間を越えて精神的にのしかかってくることも
あるのかな?などと思ってしまった。

それは自分にも当てはまる。長いことずっとずっと会いたいと
思っていたりしたら、その思い(念)はその人のところへ
なんらかの形で行っているんじゃなかろうか。

それがプラスの念ならば良いが、マイナスの念であったら
さっさとそんな思いは手放してしまいたい。時間と空間を越えてまで
誰かに不快な思いをさせていたらたまったものではない。

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寄りかかる人

私は電車で仕事場まで通っている。
時々、背中合わせに乗ってくる人がいるのだが、
なんだか密着度が高い。私はあんまりそれが好きではなく、
「少しずれて立てないのかしら?」とか思う。

そんでもって、そういう方は寄りかかってこられるので、
最近、寄りかかってこられたら向きを変えて相手と
スペースを空けてみることにした。
もしかして、相手はもう少しこちらに詰めたいかもしれないし、と。
しかしそうではないことが判明。その試みで分かったのは、
多くの人が電車が揺れたと同時によろめいて、
ちょっと意外だという感じで驚き、体勢を立て直すのだ。
「あれ?ここにあった(いた)寄りかかれてたもの(人)はどこへ?」
みたいな。
人によってはようやくつり革につかまってくれる。

なるほど。ぴったりくっつく人は、私を壁か手摺なんかの代わりに
頼りにしているタイプなのだ。新たな発見。
どうりで重いはずだ。

皆さん、電車に乗るときはできる限り自分の力で立つか、
手摺、つり革につかまりましょう。

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縁を信じますか?

昨日夢をみた。夢に出てきたのは昔私に思いを寄せてくれていた人。
その人は最近別の方と結婚したと聞いた。

何故夢に出てきたのかは不明だが、私はその人と縁がなかったのだと思う。
ずっと思いを寄せてくれて、最初の頃は自分にも好きな人がいたので
全く対象としては見ていなかった。

数年後に再会し、その人は変わらず思ってくれていて、優しく接してくれた。
そのときはもう自分には好きな人もおらず、私も好きになりたいと
思った。それに人間的に尊敬していたし、好きな人だったからだ。

それでも、縁というものは不思議で、タイミングというものが
つかめなかった。知り合いからの話でその人が結婚したと
聞いた。しかし、心から「幸せになって良かったな」と思えた。

そんな風にお互いのことが思えているのに、うまく行かないこともある。
きっとこの人ならばずっと大切にしてくれると分かっているのに
すれ違うこともある。

あまりにも大切に思ってくれているから、純粋に思ってくれているから
理想を壊したくないという思いもあった。その人が思っている自分像と
実際の自分が違っていたら幻滅させてしまうのではと。

あるアーティストの歌でも似たようなフレーズがあるが、
人は本当に思いを寄せてくれている人のことはいつまでも
思い出すような気がする。自分が好きになった人のことより。
少なくとも私はそうだ。
そういう人のことは時々思い出して、心が温かくなる。

またそういう人に思ってもらい、自分も同じように思えたら最高だ。
きっと縁があれば出会えると思う。

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同じアジア系でも

大陸に住む方々は日本人とは根性が比べ物にならないくらい
強いと思う。それに人をほめるのも上手だ。

今日、韓国からのお客人と会った。顔は日本人とほとんど
同じでも、会う度に何らかのほめ言葉が出てくる。
そういうところは西洋人と同じだ。

それから、話を聞くと、とにかくポジティブシンキングである。
常に前向き。それが裏目に出ているところもあったりするようだが、
生きていく上では、そっちのほうが楽しいに違いない。

韓国というお土地柄かもしれないが、割と常日頃から
漢文や四文字熟語のように人生訓のようななかなか良い
言葉をバシバシ使う。

私が一番関心したのは、「夏に熱い飲み物を、冬に冷たい飲み物を」
である。日本では一年中熱い飲み物をなるべく摂りましょうと
言われることは多い。
しかし、冬に冷たい飲み物はあまり考えたことがなかった。
夏に熱い飲み物を飲むと外気より体が温まるので、涼しく感じ、
冬に冷たい飲み物を飲むと外気より体が冷えるので、温かく感じる
というのである。この発想は私にとってはかなり衝撃だった。

要するに、大きなもの(外気)を変えようとすると非常に労力がかかるし
不可能なことも多いが、小さなもの(自分)を変えることは
比較的容易にできるということなのである。

これは人間関係にも当てはまるような気がする。
周りを変えようとすることは至難の技だけれど、
自分を変えることは結構自分の意思次第でできるものだろう。

中国、韓国などの方々は奥が深い。見習いたいものだ。

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自分から行動すること

最近、ずっと腐れ縁だった友人と少し距離を置こうと
連絡をしなくなった。

その友人は、遅刻の常習犯。でも自分が待つのはイヤ。
金銭面では相手が出してくれる分には問題ないというかウェルカムだが
自分は1円たりとも多く出したくないという人である。

それでも、さばさばした性格で、こだわりがなく一緒にいてとても楽だった。
しかし長い時間の中、その人は変わってしまった。
遅刻も20分くらいならまだよしとして、1時間待たされたり、
旅行へ行くときにはその友人の寝坊で飛行機のゲートまで
ダッシュさせられたり、気づけばどんどん重荷になってきた。
細かなことを言えばきりがないが、要するに遠慮、気配りというものが
全く感じられなくなった。

その人のことを考えると私は「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を思い出す。
数年どうすべきか悩んだが、私はその人と距離を置くことに決めた。
ずっと仲良くしてきた人だったので、そう思うまでにはかなりの
時間がかかった。他に方法があるかもとも試行錯誤した。

その友人は言葉もきつい感じになっていた。
原因はなんとなく分かっていた。その人はSOHOで仕事をしていて
人との関わりも少なく、深夜に仕事をしている。
おそらく自分で仕事を取ってくる、いつ仕事がなくなるかわからない
という環境は非常なプレッシャーなんだろう。
そういうこともあったので、多少ぞんざいになっても仕方がないとも思っていた。
しかし、こちらにまできつくあたるようになってきたのである。
それではたまらない。力になろうにもなれないのである。

距離を置いてまだ数ヶ月だが、私の心は軽くなってきた。
イライラも減ったし、人に対する思いやりもできてきた。
その友人が原因かどうかはわからないが、
どういう訳かその人に会わなくなってから自分が好きになってきた。

多分、その友人がどうということではなく、私もいろんなことを
自分で選択してこなかったから。人のせいにしていたから。
自分で「もう距離を置こう」と決めて、実行したから
誰かを責めたり、イヤだと思わなくなったんではなかろうか。

もう少し時間が経てば、また食事に行ったり、遊んだりして
みようとも思う。

いやならば自分から行動してやめればいい。
やりたいならそこへ近づくように歩けばいい。

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極端から極端のススメ

私は何か物事に対して、白か黒、○か×というような考え方を
する癖がある。
おそらくそのほうが楽だったからだろう。
それに柔軟な発想がなかったのだろう。

しかし、融通がきかなくて自分自身にふりまわされるというか
あっ、思ったよりそこまで大変じゃなかったなという
ことが多い。

それで、極端に考えたときは180°違う角度から
考えてみることにしょうと思う。
まだまだそれが出来ていないけど。

「これは○だ」というところを「いや×なんじゃ?」と考えてみる。
そうすると、いや○でも×でもないなということになったりする。
すると最初の「これは○だ」が正解でないことに気づく。
それでもやっぱ「これは○だ」と思えたらそれは根拠のある「○」に
なるので、自信を持って「○」と言える。

最初から「これは○だ」と決め付けていると、
いろんな可能性がなくなる気がする。
それに違った時のショックも大きい。
「私が信じてたことは???」なんて。

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ここではないどこか

ここではないどこかに自分の居場所がある。
ここではない場所に。そうやって、今いる場所に所属している
意識はとても薄かった。学校もサークルも会社も友人関係も。
本当に仕事なんかでも職場を転々としていた。

でも、「ここではないどこかってどこよ?」の問いかけをされたとしたら
私は「う~ん、どこかな???」と、明確に答えることができないだろう。

十分大人になり、昔みた夢も夢のままに終わり、
ここではないと思ってずっと逃げてきて、もう逃げれないところまで
たどり着いた気がする。

誰かがイヤだとか、生活が満たされていないとか、そういうのはないのだけれど、
「夢をみるのは良いこと」と、信じきってきたところがあり、
なかなか空想癖をやめれないのかもしれない。
私はここで必要とされてないのでは、という思いからかもしれない。

それをそろそろやめようと思う。私はここに自分で選んでいるのだから。
誰かに頼まれてこの場所にいたり、この仕事をやっていたり
特定の友人と会ったりしているのではない。
そうやって、「もっと他に本当の居場所があるの」なんて
思っていたら言い訳ばかり増えてしまう。

ここが自分の居場所だと思えれば、これから先どこへ行っても
自分の居場所だと思えるような気がするし、居場所はどんどん
増えていく気がする。

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記憶の在りか

最近、俳優さんの名前や曲のタイトルなど、いろんなものの名前が浮かんでこない。
先日も友人と話をしているとき「ええっと、旦那さんが○○で、△△のドラマに出て
いた・・・」という具合に周りの情報は出てくるのに、何故かその人、そのもの
自身の名前が出てこない。

別件で、昔々にカセットテープで録音していた曲を整理しようと聴いていたところ
超ウルトライントロ(こちらも死語ですね)で、曲名をほとんど言えることが
できた。

何故だろう???最近のことは全然浮かんでこないのに、
どうして昔の曲名とか、事柄って鮮明に説明することができるのかな?

昔、鮮明な出来事ほど記憶に残ると聞いたことがある。
私の脳みそは、昔々の記憶でいっぱいで、新しい事柄が
入る余地がもうないのだろうか?!
まだまだ人生長いのに、先が思いやられる。

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人に迷惑をかけないように・・・

私は「周りに迷惑をかけないように」することを一番に優先して
生活してきた。小学校の道徳の授業なんかで、たしか
「迷惑をかけるな」的な勉強を受けたような気がする。

ずいぶん経って、今思うのは迷惑なんてどこでどうかけているか
分からないこと。そんなことは他の人はすでに道徳の時間に
知っていたのかも。
迷惑をかけないことを考えていると、「自分」を見失ってしまう。
だから、今は自分がしたいことは何だかよくわからなかったりする。
誰かが「こうしたい」と言えば、自分は身をひいてしまうのである。
「あんまりやりたいことでもなかったかも」と。

私たちは生まれてきた時点ですでにたくさん迷惑をいろんな人に
かけている。そして、迷惑かけないようにととった行動でさえも
どこかで迷惑かけていたりする時もある。
究極を言えば、どこか迷惑のかからないところで死ぬしかなくなって
しまうのではないだろうか。それすら捜索隊など出て迷惑がかかる。

何かを食べて生きている時点で、何かを犠牲にして生きている。
そんな当たり前のことも全く気づかなかった。
それならば、やぱり自分はどうしたいのかを大切にして
やっていきたい。迷惑をかけないように生きてきた人にとっては
結構大変な作業だけれど。
誰かに迷惑がかかったら、自分が間違っていると思ったとき
その時点であやまればいい。

自分の気持ちを大切にしなければ、周りの人も大切にできない。
最近はそう思う。

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声は最高の楽器

私は歌うことが好きだ。その辺から自分のニックネームもつけた。
うまく話すことが苦手な私は歌うことで発散しているところもある。

私はどんな楽器と比べても人の声が最高の楽器だと思っている。
あまり好きでない人でも声だけは好きだったりする。
女の人の声、男の人の声問わず大好きだ。

自分の声は直接聞くことはできないけど、声が好きだから
歌ってしまう。気持ちよく出た時は本当にこんなに
癒されることはない。

しかし、声好きな私でも一緒にカラオケに行った人が
叫ぶように歌うのは好きではない。歌は上手い下手とか
関係なく大切に歌ってさえいれば、味がでていいものになると
個人的には思う。叫んでいる本人はいいのかもしれないが、
はなはだハタ迷惑になっている。そんな人と一緒の時は
カラオケが終わった後にはぐったりしてしまう。

音に敏感な私は、良い音に癒されることも多々あるが、
やっぱり車や、工事現場、家電などの機械音は
結構ストレスになる。
昔は気づかなかったが、周りの音環境は本当に
大事だと思う今日この頃である。

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人間最後

以前占い師さんに見てもらった時、「あなたはこれで人間最後です」と
言われたことがある。「えっ?!人間最後ってどういうこと?
リアリィ?」ってすんごいびっくりした。
その上「あなたは人間で生まれてくる魂じゃなくって
イルカとかで生まれてくるはずだったのよ」なんてことも言われた。

私は人と話をしていて「ズレ」を感じることが多々ある。
「これはウケる」と思ったことが思いっきし違ったり、
「こういうことを言ってるんだよね~」とか思ってても
全然違っていたりして、何げないことを発言するにも
知らず知らずにためらって本心を言わなくなってしまった。
喜怒哀楽のポイントが完全に違う気がする。

みんな少しずつはそういう「ズレ」を感じながら生活してるんだろうけど、
私の場合はあまり「共感」というものが望めない。トホホ・・・。
その理由、原因が占い師さんが言うように「人間で生まれる
魂じゃなかったのよ!」とかいう、なんともオカルトチックな言葉で
終わらせられてしまえば、「それもアリかな???」なんて
強引に結論を出すこともできるけど・・・。果たしていかに?!

ただ、生きづらさみたいなものは始終感じているし、親兄弟は
もちろん、周りの人ともどこかで繋がっているみたいな
安心感はなかなか得られないので、孤独と言えば孤独かも。
「普通」や「常識」が他の人と違うのだから。

これで人間最後だったら、次は何になるのだろう?
それも確認しておけば良かった。
最後なら後悔しないようにやらないとね。
間違って生まれたのなら、いっそ生まれるべきイルカ
として生まれたかったが。

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光と影

歳をとるにつれ、あまり人のいいところが見えなくなり、
悪いところばかり挙げるようになっていた。
そんな自分にも愛想がつきていた。

人間完璧じゃないし、いいところもあれば悪いところもある。
それは理屈で分かっていた。けど、どうも納得できなかった。
みんな良くなるようにがんばろうよ!!って。

最近思うのは、例えばその人の悪いところを1ヶ所無くせたとして、
そうなると「その人」ではなくなるんだなと。
良いものを作ろうとしすぎていろんな手を加えすぎたあまりに
返ってゆがんだ、変なものができたという話を聞いたことがある。

プラス、マイナス、全てトータルで人って成り立ってるんだよね。
そう思えると、周りの人が少々気になることをしたとしても
さほど気にならなくなった。
夏に強く光がさすところに、強い影がさすように、
光と影は一心同体(?)、2つでワンセットなんだろう。

ちょっと違うけど、最近元舞の海が「昔は白か黒かはっきりしないと
気がすまなかったが、最近はグレイゾーンがいい」みたいなことを
テレビで話していた。思わず納得である。
その人をどうとか決めつける必要もないのだ。
それにいいところ、悪いところは人によって、環境によって
変わったりするものだから。

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自分を知るには

人は、他人と接することで初めて自分を知る。
一人でいる時は取り立てて何もなく平穏に過ぎていくけれど、
誰かと接することで「私こんなところあるよね」と気づかされ
嬉しい思い、辛い思いを感じたりして自分を知る。
感情が鮮明になるというか。

今の日本って核家族化が進んで、人との関わりが少なくなってて
田舎だと仕事がないだとか、いろいろな環境で仕方がないけど
できればたくさんの人に囲まれて暮らしたい。
そのほうが心が豊かになれる気がする。
いろんな感情を知っていると、ちょっとしたことでは動じなくなる。
日ごろ自分の中に閉じこもって生活していると、体験したことのない
感情に出会った時に右往左往するんじゃないだろうか。
感情の持って行きどころが分からなくて。
最近の家族殺害や、殺傷事件なんかも、もしかすると
そういうことが少しくらい関係しているのかも。

なんだか話が大きくなりすぎたけど、
自分を知るには、きっと誰かが必要なんだよね。

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傷つかない人は傷つけない

ずっと前に「友達にひどいことを言って、傷つけたんじゃないかと心配」という
話を職場の同僚としていた。
すると同僚は「へぇ~、私は自分の言葉で相手を傷つけたんじゃないかと
思うほど、他人に影響力を持っていると思ったことはないな」と言った。
その時は「そんな風に自分が影響力を持っているとは思わないけど・・・」と
思っていたが、後でこう思った。

きっとその同僚は、人の言葉にあまり左右されない人なんだなと。
だから、自分が言ったことで誰かを傷つけるとは思わないんだろう。

私は周りのちょっとしたことに影響される性格だから、
きっと誰かにいやなことを言ったんじゃないかと考える。

人って自分の尺度でしか物事をはかれないのかも。

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お笑いコンビの既婚率

余計なお世話だけど、お笑いでコンビを組んでる人って、
ツッコミをやっている人のほうが既婚率が高い。もしくはボケの人より
先に結婚しているような気がする。

やっぱツッコミのほうが行動力があるのかな・・・。なんて気のせい?

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同じところでグルグル

人って自分で「ここいやだなぁ~」って思ってても、
なんで同じ失敗を繰りかえすんだろう?
それとも私だけなのかな?
そんでもって、それは他人からすると結構どうでもいいところ。
勝手にアリ地獄にハマッて抜け出せなかったりする。

それがいくつになっても本当に変わらなかったりすると
勝手に「これは私に与えられた何かの課題なんだろう!!」
とか都合よく解釈したりもする。
こうなったらイヤって言うくらい「自分」を全うしてやろうとか。
自分からだけは離れられないしな。

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脳が開く

脳が開く感じ。春になると私はいつもそう感じる。
冬の寒さから体のこわばりがとけるのと同時に、心のこわばりもとけて
その時、昔の記憶がアルバムをめくるようにフラッシュバックしたり、
インパクトのある言葉がテレビや、周りから飛びこんでくる。
そうやって私は毎年生まれ変わっている感じがする。

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